大島弓子先生といえば「綿の国星」、「綿の国星」といえば大島弓子先生、この紛れもない代表作に、イチ漫画愛好者としては功績に頭を垂れるものです。
画期的なコマを見るにつけ、その感性はまさに大島弓子ワールドだと思わされ、言葉も視点も他者が追随す
ればただの猿マネになりさがると、可哀相だけどそういう感じがします。
ただ私は本作以外の作品のほうが大島作品は断然楽しめます。
まず、猫の思考回路のように見えて擬人化分だけ人間臭くて、かといって人も猫ちゃんも同じだという風には描いてはいないのですから、どこかに宙ぶらりんな、読み手としての自分の立ち位置の不確かさがくすぶり続けて、入り込めない何か、を抱きながらずるずる読み進んでしまいました。
ただ最期の収録「サヴァビアン」のみ、番外編的に置かれているようだけれども、自分の感覚が共感出来る日常系に戻ってきた、変な安心感を覚えてしまいました。
本編のほうの思考回路に乗れなかった悔いもまた…。
それは決して作者の意に染まっていない事を意味するのだろうと思うと、私は本作の理解者にはなれなかった部外者的寂しさが残っているのです。
幾度とないポリバケツのエサ漁りに、私は自ら距離感を引きました。猫語と人間語の相容れないような設定が有りながらのチビ猫の人間語理解力と、まだ子ども(猫)ならではのその他諸々の知識不足とのアンバランスにも、少し違和感を。
そんな猫社会のファンタジーな日々の各話とは一線を画す、少々踏み込んだ様な印象の「ねのくに」が、逆にずっと曖昧だった方向感に煮え切らなさを感じていた私にはここに至って落ち着けた話ではありました。きっと大勢の愛読者には私の感想は異端なのではと思います。この話以外のほうが、らしさ満開とは思っています。
私は猫ちゃんよりどちらかというとワンちゃん派だからなのかもしれないけれど、家の中外の出入り自由さと、何処で何してきたのか不明さにおいて、そこがこうしていろいろイマジネーション膨らますお話になり得るのはわかるものの、もし、自分が飼っていたら安否の心配とか現実の不在時の不安感などをそそられる気がして、人間とチビ猫とのコミュニケーションの欠けっぷりが描かれた本作により、更に猫ちゃんは飼えないという確信が、不幸にも高まってしまいました。
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